第8回チェインディスカッション
日本原子力学会 社会・環境部会
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討論テーマ:「原子力施設の立地という問題を考える-地元・設置者・行政機関にとって最適解はあるのか」
日時:平成14年3月28日(木)13:00ー15:30
場所:学会春の年会A会場(神戸商船大学)
座長:土田昭司氏(関西大学)
1.プログラム
以下の講演者の方に、今回のテーマの趣旨に沿った演題にて講演をいただき、会場からの質疑と自由討論を実施した。参加者は約150名であった。
(1) 講演
@鈴木 康夫氏(原子力発電環境整備機構 専務理事)「高レベル廃棄物処分施設建設地の選定について」
A高橋 滋氏(一橋大学教授)「国家的政策と地域的決定のあり方」
B近藤 駿介氏(東京大学教授)「立地問題に学会として何ができるか」
(2) 質疑&全体討論
2.議事概要
宅間副部会長(日本原子力産業会議)より、社会・環境部会の役割とチェインディスカッションの趣旨の説明があった。昨年の5月に刈羽村で実施された住民投票をきっかけに、中立的な学会という立場でこの問題を考えるべき、との意見が高まり昨年の12月には「刈羽村住民投票から学ぶこと」というセミナーを開催し、今回も立地問題をテーマとしている。さらに宅間副部会長から、座長を務めていただく土田氏の紹介があった。
(1) 土田座長御挨拶
私の専門は社会心理学である。まだ原子力学会員ではないがこれを機会に原子力学会に入会したい。私は、特に原子力の問題にも強い関心を持ちながら、一般の人々のリスク認知、リスクコミュニケーションについての問題を社会心理学の立場から研究している。
(2)鈴木 康夫氏(原子力発電環境整備機構 専務理事)「高レベル廃棄物処分施設建設地の選定について」
・ H12年5月31日に「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」が成立した。「特定放射性廃棄物」としたのは、高レベルをごまかしたわけではない。高レベル放射性廃棄物というと溶液と固化の両者を含むので、今回は分けるために「特定放射性廃棄物」とした。法律学者の間では昔から「特定放射性廃棄物」だと思っていた。処分地選定の3段階のプロセスが法律で定められた。
・ 処分地選定はH40年代後半操業開始を目処に進められている。公募は市町村単位で、国民や地域の理解が大切だと考えている。処分地選定には地域の意向が重要である。
・ 概要調査地区の応募要領を作成中であり、条件が整いしだいH14年度中に公募を開始したい。応募要領、処分場の概要、概要調査地区選定上の考慮事項、地域共生の取組み方を現在作成中である。最終処分地選定の手続きは非常に面倒であるが、どんなに面倒でもやるべきことはやり、地域の理解を得て進めていきたい。
・ プロセス全体を考えると、決して時間的に余裕があるわけではなく、H14年度から応募を開始しないと間にあわない。そのためにシンポジウム等を開催してきたが、いつも質問されることが「受け入れるところがなかったらどうするのか」ということである。まだ公募も開始していないので、受け入れ地が出てくるように一生懸命理解活動をするのみである。
・ 原子力発電環境整備機構のフォーラム、科学技術庁のシンポジウム、国主催のものなど数多く実施している。地層処分が生活環境を汚すようなものではないことをアピールしたい。情報公開に努め、市町村の理解を得たい。放射性廃棄物持ち込み禁止条約を定めている所があることも分かっている。H13年の3月から7月にかけて47都道府県を回って事業の説明をし、全てのところで説明を受け入れてもらえた。資料を3200余の全市町村に送った。
・ 処分地選定には地元市町村と周辺、知事が関わるので難しい。さらに市町村合併の動きもあり、一度受け入れてもらえてもその後変更することは十分にありうる。判断の継続性が難しくなってくる。また、有権者の1/50で住民投票の直接請求ができることも考慮する必要がある。
・ 応募を支援する地域共生策に加えて、より長期の共生策を地域の方々と一緒に考えていきたい。処分地選定はこれまでの発電所立地とは大きく違う。まず調査がある、ということは長期に他所様の土地にはいりこまねばならない。地元の支持を得続けなければならない。今後も誠実に努力していきたい。
(3)高橋 滋氏(一橋大学教授)「国家的政策と地域的決定のあり方」
・ 「主権国家」がゆらぎ始めているのではないか?国際化の流れにあっては、地球温暖化問題など、主権国家といえども一国では決められない時代である。国内にあっても、地方分権ということで、H11年度に地方自治制度の改正があり、地方の統治権が拡大すると同時に力の足りないところは合併して力をつけねばならなくなった。国の集権的な監督が緩められ、地方公共団体を1人の大人として扱うようになった。
・ 各主体相互のネットワーク・協力関係が構築され、民間NGOの役割が増大した。動き自体は前からあったが、量的な変化が見方を変えた。
・ 政策決定には協働(協同して働く?ドイツ語のMitwirkungの訳)が取り入れられている。これまでの行政指導スタイルとは異なってきた。また、地域住民の意思の反映手段として住民投票が行われる。国策と衝突する住民投票は禁止、とすることはできるが、住民アンケートのようなものは禁止できない。
・ 地域政策決定のシステムも変化し、高浜市のように住民投票条例を定めたところもあり、地域NGOが関わり、広く情報が公開されるようになった。こういう動きに対しては特にコメントすることはない。
・ 原発立地における政策決定システムについて若干私見を述べたい。これまでは立地点については、総理大臣を長とする電調審で決定していたが、経済産業大臣の審議会となった。民主的正当性を高める意味では、以前のシステムの方が良かった。また、知事以外の長の意見をどうするべきか、が課題であると考える。放射線防護について、環境アセスメント相当のものを法律で整備することが必要ではないだろうか?これらの点を除けば、全体的には著しく改善され、多くの問題点も解決したと思っている。
・ リスクとベネフィットを受ける人が違うという点が化学物質や車と原子力との大きな違いである。欧州ではPrecautionary Principle(予防原則)という、リスクが顕在化する前に対応する、という方法でリスク低減をよりいっそう進めている。
・ 放射能のリスクは立地点を中心に放射状に広がっている。また、原子力リスクに国民はnervousになっている。リスクのもつ科学的不確実性も含めてリスクそのものの低減が必要である。
・ 様々な主体がネットワークを組んで政策を決めていく時代であり、リスクコミュニケーションは大事である上に、特に、このような観点からコミュニケーションが重要となる。
(4)近藤 駿介氏(東京大学教授)「立地問題に学会として何ができるか」
・ エネルギー総合工学研究所の下岡さんの研究で長年にわたる人々の意識調査がある。これには、社会と学会の関わり方を考える際に考慮するべき情報が多いので、その紹介から始める。それによると、原子力施設に対する有用感は全体の60%が認めていて、態度を決めていないのは1/4?1/5程度である。しかし、原子力の制御可能性については、1/3が疑問視しており、1/4はどちらともいえないと考えている。新潟では疑問を抱く人の割合が他の地域より大きい。運転管理に信頼がおけないと思っているのは、国民の3割。また、全体を通じて、原子力に対して否定的な人の割合に男女差はないが、中間的意見、つまりどちらともいえないという人の割合が女性の場合に大きい。以上のこと、特に、いろいろな点で中間的な意見の人々が多いこと、一般の人々は、TVについで専門的機関に対して信頼感をもっていることを踏まえると、専門家集団であり、ボランティアの集まりとしてのNGOである学会は、エネルギーに関する情報提供を行うべき立場にあるのではないか。
・ ANSでは年に数回、Position paperを出して政策決定者やメディアに発信している。ホームページでFAQコーナを作ったり、教師向けに年に4回はReActionという定期刊行物を発行し、セミナーを行っている。
・ 環境倫理学者は1000年間の処分場の健全性に係る不確実性を根拠に、これを子孫に残すことを不公正とする。また、先程ご紹介のあった予防原則は海洋汚染防止の議論から始まったと理解しているが、未知リスク、特に不可逆なものについては代替物がある限りこれを避けるべし、というもので、1990年代のヨーロッパの環境規制論議の指導原理になった。しかし状況は変わってきている。予防原則も万能ではなく、やはり、できる限りの情報を集めてリスクベネフィットを評価した結果に基き意思決定していくべきという意見も復活しつつある。このように様々な安全を巡る論点があるところ、Timelyに学会がPosition Paperを出せるか、である。
・ 学会として技術標準策定活動を始めて、やっと2つできた。最近のトラブルの要因はヒューマンファクターと設計である。ヒューマンファクターにしろ、設計にしろ、トラブルが発生するのはきちんとした技術基準がないからで、それを作ってこなかった学会が悪いという反省に立っての活動である。Stake holderが決定過程に参加できるコンセンサス・スタンダード作成機関として認知されるようにやっていきたいので、会員であるとないとを問わず、関心のある課題については意見を寄せて欲しい。
・ この場合も学会としてTimelyに動けるかが問題である。プルサーマルも申請が見えてこないと行政は何もしない。NRCは2010年に新申請があることを前提にすでにdiscussionを始めているが、我が国の行政は先取りした検討ができない。しかし、学会でならできる。標準のNeedsを先取りして、冷静な環境で技術基準を作れることが小さな問題を大きな話題にしないためにも重要と考えている。
(5) 質疑&全体討論
(参加者A)
3点述べたい。
・ 政策決定システムは変わってきている。総合エネルギー調査会の審議会にと請われ参加した。審議会というシステムの改革案を出したが討論もなしに否決された。エネルギーも「原子力なしでOK」というシナリオを示した。十分なものではなかったといえ、討論もされずに終わった。答申に対して反対を述べたが意見を取り上げられなかった。不充分ではあったが、政策決定システムに私のような今の原子力利用に反対を掲げているものでも参加できるようになり、エネルギー政策の中心の部会に参加しているという点を皆さんに知っていただきたい。
・ 本日のテーマ設定が不適切。原子力ありきではなく「原子力施設はまったくいらないんだ」という立場も含めて討論してほしい。これを座長にお願いしたい。
・ 今の時代で国策というものをどう考えれば良いのか?国策というものは今の形でいうといらないと思っている。今は成り立っていない。地方分権を中心に国のあり方も基本的に変えなければならないと思っている。
土田座長
原子力施設の中には高レベル廃棄物処分施設も含まれると思う。仮に原子力をこれからやめるというオプションをとったとしても、今までに発電した分の廃棄物処理は必要であり、それを処理する施設をどこにするかが決まっていない以上、その立地問題は原子力学会として考えることなのではないか?
高橋教授
ネットワーク社会の中では、政策決定として、いらないのではないかという意見の人も含めた形で多様な主体が参加する中で行われること、これがシステム全体の信頼を獲得するべき上で極めて大切なのではないか?廃棄物は作った国の責任としては自国できちんと処理する、その中でそれらを正面から掲げて立地を国内にきちんと確保すること、これまで原子力エネルギーを享受してきた国の責任としてあると思う。議会制民主主義の下で、わが国として原子力政策については維持しひとつの重要な資源として位置付けるというように決まっている。様々な立場で意見を出すことは必要であるが、すでに議会制民主主義の世界で政策決定されている。
(参加者A)
既にある廃棄物を日本で処理しなければならないのはもちろん。そのためにはこれ以上廃棄物を作らないということが前提となる。今考えているような形で処分せず、フランスが言っているように「利用しながら処分する」という方法も可能であることを述べておく。
近藤教授
ただいまの「様々な技術的オプションがあり処分するだけが能じゃない」との御意見は、最先端の原子力技術の議論である。しかしそれは現時点では可能性としてはあるにしても、これから技術開発を行って初めて選択肢になり得るものであるから、それを前提に制度設計を行ったり、それの研究開発を待てというのが適切かどうか。小生は最善ではないにしろ実行可能な方途がある現在、それを前提に制度設計を行い、その実現に向けて努力を開始すべきと考えている。もう一点は、前段の「これ以上増やさないことを前提としなければ立地問題を議論してはならない」、という主張は論理的ではなく、一方的。
なお、先ほどの審議会の審議のあり方について提案が議論されずに葬り去られたという説明があったが、小生は、不充分であったかもしれないがそれなりの議論はあったと思っている。また、国策不要論には高橋先生が間接的に反応されたと思うが念のため、国策なくして地方分権はあり得ない。地方分権も国策の一部である。国家の政策、国策なくして、地方分権だけで、国民の生命と財産の保護が可能であるとは思えない。ユートピアに過ぎる。
田中 前社会・環境部会長(学習院大)
「国策」という言葉の定義に問題がある。「国策」と言う言葉には戦前の中央集権的な政治、つまり「国による一方的政策の押しつけ」のニュアンスが強く、「民主主義」の反意語として使われることさえある。また、「国策」という概念から連想されるさまざまな過去(戦前・戦中)の忌まわしい出来事を思い出し、「国策」という言葉それ自体に対して拒否反応を示す思想家、学者、研究者、一般市民が少なくない。「地方自治」や「市民の目線」などの概念はしばしば「国策」の対立概念として使われる。こうしたことから考えると、意味論的にいえば「原子力」を「国策」「国策」と強調することはあまり好ましいことではないだろう。
さて、民主的な政策決定を代表するものに国会がある。国会は、公共の選択を討議し決定する場でもありプロセスでもある。国会における選択プロセスを経て、国の政策として公に認められているのが原子力である。政党によって温度差はあるが、全ての政党がいちおう公共の選択として原子力を容認している。したがって、原子力に反対する自由は誰にでもあるが、かといって反対の意見があるというだけでは、政府が国会の承認を経て公に選択した原子力を中止したり、放棄したりすることはできない。何事によらず、市民の運動だけでは、いったん国(国会と政府)が選択した政策を覆すことは難しい。
しかし、公共の選択が永遠であるわけではない。将来、例えば20年、30年後に、原子力よりももっと安く、より安全に、より大量に生産できる新しいエネルギー源の選択が可能となる時がくるかもしれない。そのような新たな状況の下では、原子力が公共の選択から外れることもあり得る。ちょうど、かつて産業革命を支えた石炭が環境保護の立場から捨て去られようとしているように。どんな選択も永遠、不変というわけではない。政治が係わる事象について言えば、原子力もその例外ではない。有権者の選択も変わるし、それを受けて国(国会と行政)の選択も変わる。その一例に、巻町や柏崎市など、一連の「住民投票」がある。住民投票の結果、大きな政治的ショックの後遺症が残されている。国による垂直的な政策の「押しつけ」に対抗するものとして、地方自治体レベルでの「住民の多数決による選択」が行なわれるようになったことの、先例としての意味は重い。立地問題で地方が中央の選択に対して「NO」という結果を出し始めていることは、よく御存知と思う。しかし、すでに存在している放射性廃棄物、特に高レベル放射性廃棄物の管理はもはや理論の問題ではなくて、現実の問題だ。今ようやく問題が提起された段階で、円滑な問題解決の糸口は全く見えていない。中央だけでも、地方だけでも問題は解決しないという現実をクールに直視する必要がある。政治学者として、あえてひとこと付け加えさせてもらった。
鈴木専務理事
他の講師の講演を聞いて色々と考えた。リスク概念の明確化の必要性は感じている。リスクを何との均衡で捉えるかは今後の問題。ハコ物から街作りへ、というご意見には賛成。住民投票法があり、エネルギー、国法はこれに馴染まないとの意見があるのも知っているが、立地を実施する側の人間としては現行法の下で謙虚に地域の理解を得ながら進めたい。学会は中立的専門家の立場から、といわれたが、「地層処分は技術的に安全になしえない」とする専門家もいる。専門家には専門家が対応してほしい。また、今回の法律で「安全については別途定める」となっているので、学会にその部分を担当して欲しい。
土田座長
テーマが不適切との指摘があったが、サブタイトルの「地元、設置者、行政機関」とある部分が問題なのではないか?参加する人間はこれだけなのか?一般の多くの人々にとって自分はまったく危険が及ばないところに居るのが原子力についてのリスクの特徴であり、このことが交通事故などについてのリスクと大きく違う点である。つまり、このサブタイトルには消費者というかMajorityがいないのである。国民一般の大多数が原発は悪だ、倫理的にいけないという意見であるときには、自治体が原子力施設の受け入れを決断すれば悪の片棒を担いだように言われ、交付金に目がくらんだと書かれる。そんな状況の中でまともな自治体が手をあげるはずがない。世の中一般が「それは良いことだ」と思ってくれないと、どこの自治体も受け入れられない。原子力は複雑で一般の人に分かりにくい。それ故にこそ専門家の意見に一般の人々は頼ることになるが、専門家のなかにも原子力に反対する人たちがいる。このような状況に対して、学会としてどう対応していくのか聞きたい。
近藤教授
部分的に答えることになるが、リスクの空間分布が不均等とのご指摘があったところ、リスク分布が不均等なことが本当に問題なのか。車のリスクも調べてみると空間的ばらつきがあり、実は東京が最も小さい。だから、東京に多くの人が住んでいるのか、多くの人が住んでいるからシステムが整備されてリスクが小さくなっているのか。それはともかく、リスクが場所毎に異なってもある水準以下であれば、それが住居を定めるに際して、各自の選択に影響を与えていないと見ていいのではないか。原子力安全委員会は1年前に、安全目標専門部会を設置した。原子力立地に関しては、発電所の設置によってその社会のリスク環境を事実上変えない事を前提に、How
safe is safe enoughに答えて行きたいとの考えからであると理解している。作業はStep
by Stepで進め、近々ワークショップを開催したり、Public Commentsの機会を設けて、慎重に合意形成過程を設計したいと考えている。この作業に期待しているのは、リスクという共通の関心事で技術の専門家と国民が対話できるようになることである。
なお、人々が戸惑うのは専門家間に意見の相違がある状況であるとよく言われる。このようなときに、米国原子力学会は、論点ペーパーを用意したり、Position Paperを出している。私は、このような活動も、つまり、専門家同士の討論の要点を国民に知らせることも学会の役割・責任と考えているが、この点は、学会の然るべき機関でどうするべきか、議論してほしい。
成合 原子力学会副会長(筑波大)
これまでの学会は仲良し倶楽部で学術を高めていけばよいというのが長い間の主流であったが、ここ10年技術者研究者の社会的責任ということで大きく変わってきて色々な活動が始められてきた。しかし、学会は自由意志でボランティア参加が多く、またいろいろな考え方の人がいるので、即明日から全てを変えるというわけにはいかなかったが、改革の必要性の認識も深まり、平成13年度より大きな改革を行った。その一つに広報情報委員会の設置があり、現在学会広報の基本原則を定めつつある。例えば緊急時には会長名でPosition
Paperを出す、といった部分もある。また社会的な役割に対し国からもいろいろ要請を受けつつある。しかし、お金のないボランティア集団であり、実効性のある活動をどう進めていくかが今後の課題で、広いご協力ご理解を頂きたい。
宅間 社会・環境部会副部会長
今原子力は、巨大・複雑な技術に対する不安感と、時々事故を起こしたり事故隠し・データ改ざんなどをやる原子力技術者・関係者への不信感という双子の社会感情に直面している。これらの払拭を目指して学会は2年間の検討を経て昨年倫理規程を制定した。これは社会と専門家とのあり方を規程するもうひとつの学会の大きな活動で、それをフォローアップする倫理委員会を作っている。専門家への不信が大きくなっている昨今、社会との関係のなかでの技術者の職業倫理および、ともすれば危険性を含む原子力関係事業にたずさわる経営者の経営倫理が盛り込まれている。
土田座長
そろそろまとめにはいる。社会心理学者の立場として感想として2点あげる。
穢れ(けがれ)について。不動産屋に行くとお墓の周りの土地は安い。科学的に考えてお墓は何も悪い点がなくても、実際の経済活動としてお墓の回りの地価は安く、皆がいやがる。広島・長崎の不幸な出来事を背負い、原子力も同様の穢れを背負っているのではないか?その上でどうするか、の議論も必要。
成熟した市民に関して。子供が学校から帰ってきて学校で教師にぶたれた、と言ったとき、昔の親であれば「子供が先生に手をあげさせるほどの悪いことをしたに違いない」、と思っていたが、今の親は「先生が間違っている」、と思う。学校の先生という教育に関する専門家の判断よりも自分の方が正しい判断を下せると思っているのが今の「成熟した市民」である。原子力に関しても、専門家の判断よりも自分の方が正しい判断を下せると思っている人たちに対してどのように広報するのかも検討課題である。
以上
(文責:チェインディスカッション幹事)