第6回チェインディスカッション
日本原子力学会 社会・環境部会
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討論テーマ:「原子力への期待と懸念」
日時: 平成13年3月28日(水)13時−15時30分
場所: 学会春の年会A会場 (武蔵工業大学)
座長: 大木新彦先生 (武蔵工業大学)
プログラム:
討論テーマ「原子力への期待と懸念」と題して、以下の講演者の方に、本テーマの趣旨に沿った演題にて講演をいただき、会場からの質疑と自由討論を実施した。
(1)
講演
@清水昭比古氏(九州大学教授)…「異様なるもの原子力、そして人間」
A飯田哲也氏 (日本総合研究所主任研究員)…「『市民』の不安に背を向ける『原子力ムラ』
〜リスク社会におけるエネルギー政策形成に向けて」
B鳥井弘之氏 (日本経済新聞社論説委員)…「今の原子力技術は万全か」
(2)
質疑&全体討論
出席者:約150名
議事概要
常任幹事の傍島眞氏(原研)より、チェインディスカッションの趣旨および経緯を説明した後、今回、座長を務めていただく大木先生の紹介があった。
大木座長からは、
「本日の市民公開討論会に当り、21世紀のエネルギーにおいて欠かせない原子力に対して、幅広い見地より再度考えたいと思います。議題として、最近公表された『原子力長期開発計画』の中にキーワードとして多く使われた『原子力の光と影』に準じて『原子力の期待と懸念』にしました。」との冒頭挨拶に引続き、
本討論会の進め方について説明があった後、各講演者による講演に入った。
(1) 清水昭比古氏(九州大学教授)…「異様なるもの原子力、そして人間」
原子力は異様な世界である、そして熱力学の法則、水力発電に見る自然エネルギーの姿、最後に人間は異様な生き物である。そして、これらを原子力への期待と懸念という、プラスとマイナスの要素の折り合いをつけたいと考えている。
一般向けには、原子力と火力の違いは、熱を出すメカニズムが違っているが、後の蒸気を作って発電するのは同じであるといわれるが、中で起こっていることにはとんでもない違いがある。その一つの現れとして、ウラン1グラムから発生する熱は、石炭3トン、石油2キロリットルと同じであり、単位質量あたりでは石炭の300万倍、石油の200万倍の熱が出る。
エネルギーレベルでみる原子力の異様さは、化学反応の世界では、例えば炭素が燃える時に出てくるエネルギーが大体4.17エレクトロンボルトであり、核反応の世界では、これが100万倍の2メガエレクトロンボルトになることでもわかる。
このような異様な世界を我々は利用している。さらに、目には見えない放射能が仮にでてくるとなると、最後には細胞を破壊してしまうプロセスもある。業界の人間は慣れてしまっているが、原子力は異常な世界であり、我々が原子力と付き合っていくことに対して疑問を持つことは当然のことと思う。
我々の住んでいる環境温度を20度とした時、エネルギーの量から見ると、100度の水1キログラムと、25度の水16キログラムは等価であるが、そこから最大限とれるパワーは、100度の方が25度の約10倍とれる。つまり、100度の水は、25度の水に比べ質が良いと言える。言い換えると、100度の水1キログラムと同じだけのエネルギーを、25度の水から取り出すとなると先ほどの16キロではなく160キログラムもの量を集めなければならない。
その意味で自然エネルギーは、希望の星ではあるが、十分に散ってしまったエネルギーである。原子炉の場合は、約45立方メートルで300万キロワットの熱を出しているが、太陽の光からのエネルギー密度は1平方メートル当たり1キロワットである。従って、自然エネルギーを考えるならば、集めるということがキーワードになってくる。
水力発電も元は太陽エネルギーである。九州電力の耳川水系の水力発電を例にとると、耳川水系の約700キロ平方メートルで約35万キロワットを発電しており、1平方メートル当たり0.5ワットとなる。
太陽光発電では、真夏のカンカン照りのピーク値で、1平方メートル当たり約1キロワットであるが、夜は発電できないこと、昼間でも天気が悪いことを考えると稼働率は10パーセント程度である。さらに、太陽電池の光から電気への変換効率を考えると、今は10パーセント程度であるので、最終的に太陽光発電は、1平方メートル当たり10ワット程度になる。仮に100万キロワットの原子力発電所を太陽光発電で置き換えると、山手線の内側の面積が必要になる。
日本の原子力発電所の総設備容量は、現在51基4500万キロワットであり、これを太陽光発電に置き換えると、高知県相当の4500平方キロメートルとなる。しかし、高知県相当の面積の太陽電池パネルを設置できる場所が必要ということであり、高知県の全家屋の屋根ではない。余程の密集地でも屋根の面積は、土地の面積の2割とか3割である。
現在、我々は、45億年に亘って貯えられてきた化石燃料をこの300年で使い切ろうとしている。次世代のことまで考えて対処していく必要がある。原子力というのは生やさしい世界ではなく、可能であれば無い方がいいと思うが、今原子力を止める訳にいかない。原子力は、Better
な選択ではなく、 Less Badな選択である。
(2)飯田哲也氏 (日本総合研究所主任研究員)…「『市民』の不安に背を向ける『原子力ムラ』〜リスク社会におけるエネルギー政策形成に向けて」
日本で語られるエネルギー、とりわけ原子力は非常に政治的なバイアスがかかっている。そういう政治社会的な流れを、少し北欧の事例を交えながら話をしたい。最終的なキーワードとしては、政治的なバイアスを除いた対話の場を形成できるかどうか。原子力は無くてはならないのかという話があったが、そういう単純な二者択一ではないと思っている。
政策として前のめりで原子力をやっていこうという国は、おそらくロシア、中国、北朝鮮であり、仲間としてあまり好ましくない国と友達にならなければならない、そんな環境に日本は今おかれているのではないか。国際的に見て脱原子力政治というのが始まっている。
この脱原子力の流れの背景には、80年代?90年代にかけて大きく二つの「民主化」の潮流があった。その第一は「経済の民主化」である。エネルギー部門で言えば、電力市場自由化、電気市場改革という言葉に象徴される、狭い目で見た経済の民主化のことを指している。もう少し政治科学的に環境政策を交えて幅広く言うと「エコロジカルな近代化」(Ecological Modernization)ということができる。
第2の「民主化」は、「政治の民主化」である。一応日本も形式上は民主主義の形をとっているが、いわゆる代議制民主主義というところで、社会がとどまっており、それすらも形骸化している。そうした社会主義か、自由主義かの体制選択を問う、かつての55年体制の民主主義ではなく、もう少し進んだ「リスク社会」という認識に立った新しい民主主義を目指す状況のことである。ここでいう「リスク社会」とは基本的には80年代半ばにドイツの社会学者ベックが提唱した「リスク社会論」に基づくもので、例えば市民が不安に思うこと自体も社会の大きな「リスク」として捉え、意思決定から阻害されることも「リスク」として捉えるもので、いわばヨーロッパ型のリスクと言ってもよい。
ヨーロッパ型の脱原子力政治の背景には間違いなく、この「リスク社会」という認識がある。「リスク社会」と対比すると、従来の「産業社会」では、産業と科学技術を発展させれば社会が豊かになり、その財の配分を民主主義に委ねるという近代化であった。それが、この新しい「リスク社会」では、科学技術や産業の発達が自分たちの社会にそのまま思わぬリスクとなって、ブーメランとなって跳ね返ってくる。つまり、従来の代議制民主主義は財の分配のためにあるのでこれはその範囲内で有効だけれども、リスクの分配、市民の不安をできるだけ最小化し抑制するには不十分との認識である。
1960年代後半から現れた対抗的政治文化によって、1970年代に原子力を巡る二項対立の政治的対立が世界の多くの国で見られた。1973年のオイルショック時に、「お上」である政府はOPECに対する対抗のために大規模集中型の原子力を推進しようとした。これに対抗して、「民衆」は自然エネルギー、省エネルギ?による小規模分散型システムで民主的なエネルギーを進めていこうとした。未だに日本は、こうした原子力を巡る二項対立的な政治対立構造から抜けきれていないのではないか。
この「二項対立的な政治対立構造」からいち早く抜け出たのは、北欧を筆頭とする欧州諸国である。スウェーデンでは1980年に原子力を巡る国民投票が行われたが、この国民投票で一番重要だったのは国民自身が原子力とエネルギーと自分たちの未来のことを考え抜いたことである。結果的に、その当時計画していた6基の原発は全て建設し合計12基にするけれども、2010年までにその後すべて閉鎖するいう国会の議決に到達した。その時をもって、スウェーデン社会は従来の対抗的政治文化から抜け出し、エコロジカルな近代化へと、新しい政治文化に移行したと言える。
デンマークの例を簡単に説明すると、必ずしも国会での論争ではなく、文字通り広範な国民全体による「民衆の反原発運動」対「政府+電力」という対立構造ができあがった。そこに追い討ちをかけるように、首都のコペンハーゲンの目と鼻の先にスウェーデンが原発を作り、さらにスリーマイル事故が起きたために政治問題化し、1985年に議会で永久に原子力を禁止した。ドイツにおいても、フライブルグなどローカルには北欧と同じ時期に同様な状況となり、スリーマイル事故をもってほぼ新しい政治文化に移行した。
対抗的政治文化の時代の環境運動は、「レジスタンス・アイデンティティ」、すなわち相手に反発し反論することに生きがいを見出すというものであったが、80年代には、対立ではなく対話的なエコロジカルな近代化の政治文化に移行していくにつれて、「何かを成し遂げる」という「プロジェクト・アイデンティティ」という価値観に移行してきた。このような考えにぴたっとはまったのが自然エネルギーと省エネルギーである。
このように、政治の文化の質がこの20年間でものすごく大きく変わってきている。その政治文化の中に原子力が入る余地はすでに無くなってきている。日本のエネルギー政策は官僚支配であり、彼らは国民に対する愚民意識の下、合理的な政策を行っていることを前面に出しているが、この合理性そのものが疑わしくなっている。たとえば、ドイツではこの10年で600万キロワットまで風力発電を積み上げてきているが、日本のそれは15万キロワットであり、日本のエネルギー政策が合理性もなく無策無能でやってきた結果と言える。
日本のエネルギー政策はもともと供給サイドの分類、すなわち石炭、石油、原子力、電力、天然ガスなどから組み立てられている。しかし、需要サイドで組み立てたエネルギー政策が必要で、その場合は、電力、熱、交通、そして産業という組み立てとなるが、このように見ると、民生分野の暖房(熱分野)には全く基本的政策がないことが明らかとなる。その結果、未だに8割が灯油暖房であり、これは途上国型の暖房システムであるといって良い。しかも賃貸住宅などでは極めてお粗末で寒い。このような状況にも拘らず、供給だけは必死に守るといった日本のエネルギー政策には歪みがある。
民主主義そのものが成熟している中で、たかだか電気のためにダム建設によるコミュニティを破壊するということはもう許されない状況になってきている。それは原子力についても同じことが言える。原子力は全面展開か全面撤退かではなくて、今ある原子力を安全に使いながら今後の拡大は凍結するというところから、日本のエネルギー政策への合意形成は始まると考える。
(3)鳥井弘之氏 (日本経済新聞社論説委員)…「今の原子力技術は万全か」
昔は日本の将来を俺達が担っているんだという誇りがあったし、原子力技術にはまだまだ未来があるんだという意欲みたいなものもあり、攻めの姿勢が強かったという感じがするが、今は、誇りもなくなり、後ろ指をさされないように気を使っている。そして、時々は都合の悪い事には蓋をするような感じまで受けるようになった。
IBMが昔、世界のコンピュータ市場を支配していた時期においては、コンピュータと言えば大型機であったが、その後アップルが世に出したパソコンは、同じコンピュータでも全く形態が違っていた。コンピュータ・テクノロジーの幅が広がった。
生物は、突然変異が起こって環境による選択で進化をしていく。どの生物でも、DNAと同じ原理で書かれた同じ要素技術で支配されているにも拘らず、進化する環境が違うと、鳥になったり虫になったりする。
生物の進化と技術の進化をアナロジーで語るとすると、生物でいう突然変異とこの変異の自然環境による選択は、技術で言うと、アイディアや発明があってそれを社会の価値観が選択することに当てはまる。
若者という違った価値観の環境の下で、パソコンが生まれたが、原子力についても同様のことが言えるのではないか。現在の軽水炉や高速炉にしても、例えばもんじゅのようなものが全てではないはず。別の価値観の中で技術が進化すれば、全く違う形の物が出来る。
現在の原子力は、先進国とか、電力会社という特殊な社会の中で発展した技術。これが今の形ではないかと思う。ある特殊な環境の中に、あまりに適応し過ぎると、特殊化という事が起こって、大きな環境変化に対応出来なくなってしまっており、原子力もある意味では、特殊化が進んで環境変化についていけなくなっている気がする。
糸魚川静岡構造線の活断層による向こう30年間にマグニチュード8の地震の起こる確率は、実に16パーセント。一方、日本の原子力発電所が過酷事故を起こす確率は100万年に一度であると言う事なので、向う30年間に過酷事故を起こす確率は、0.003パーセントで、日本の原子力発電所は極めて安全性が高くて、この地震や自動車事故に比べるとはるかに安全だと分かる。
しかし、一般の人にとっては、地震や交通事故より、原発が一番怖いと思っている。現在の原子力技術は、頭では安全だと理解する事は出来るが、安全対策が大変見えにくく分かりにくいという問題がある。見えやすく、実体験できる安全性を備えた技術を追求する事が必要なのかもしれない。
次期の原子力発電プラントとして150万キロワットもの大型プラントの話があるが、自由化が進展する中ではコストと共に、投資リスクが問題になる。それに日本から世界に目を向けると、エネルギー需要が大きく伸びるのは発展途上国が中心であり、発展途上国の多くの地域では100万キロワットという需要は見込めない。そこで、大型化してコストダウンするという技術体系ではなく規模によらずコストの安い技術を追求する考えもあるし、投資の小さな技術が必要になると思う。需要の増加に応じて順次、台数を増やしていくといった補充型の技術、途上国でも使えるような技術といったものを日本が生み出していく姿勢が必要である。
電力の生産地と消費地の問題解決の糸口は、昨年の原子力産業会議で石原東京都知事が述べたように、東京や大阪の真ん中に原子力を立地することである。原理的に過酷事故が起きないような原子力、地震など陸地での特性に左右されないような技術といったものを作り上げていく必要がある。
発展途上国で原子力技術の利用が進むとすれば、出来る事ならばメンテナンスフリーで運転要員なしで運転できる原子力プラントというのが理想である。さらに、核拡散抵抗性の強い技術体系に転換していくことも必要であり、運転期間は燃料を取出さないという技術体系を考えることもありうるのではないか。
日本の原子力50基が平均20年の運転経験を持っているとすると、経験時間は1000年になるが、過酷事故の確率が100万年に1回だとすると、1000年の運転時間では、100万年の1000分の1しか経験していない。そういう意味では、日本の原子力発電所は、過酷事故の原因となるような現象をまだ経験してないかも知れず、経験時間を蓄積する技術の体系があっても良いと思う。
日本は海外先進国から原子力技術を導入し、それを国産化改良するというやり方を行ってきた。高速増殖炉の開発も最初から開発すべき炉型が選択されてそれに向かって一直線に開発を進めてきた。そこには様々な提案を受け基礎研究をやり、順次開発段階を移って行くというプロセスが欠けていたのではないか。いわば開発は存在するが、それを支える研究がなかったと言える。
誰かが新しい技術体系の芽を思いついても、それで物を作ってみようというメカニズムがなかった。だから、動燃は硬直した組織になってしまったし、大学の原子力研究は火が消えようとしているのではないかと思う。研究は本来、テーマの提案があってその優れた提案について研究費がつき、さらに進めるべき研究が取捨選択されるというプロセスが必要である。つまり、今流行りの競争的資金に相当するような研究資金が必要ということである。
原子力技術には可能性があり、これを引き出すメカニズムをどうやって構築していくかをこれからの大変大きな課題だと思っている。原子力にはまだまだ未開拓分野がたくさんあることが期待であり、原子力技術と関係者がエスタブリッシュになってしまったのではないかということが、大変大きな懸念である。
(4)質疑&全体討論
〔参加者A〕
飯田先生の話で、現在の政治の動きというのが住民参加型というか、討議制というかそういう民主主義に向かっており、原子力もそういう社会の状況に対応しなければならないということについては分かるが、協議型民主主義の中で合理性の果たす役割についての考えを飯田先生にお聞きしたい。色々な意見を持って集まってくる人達の間で合意を形成する時に合理性という基準を外してしまうと、一体何でもって社会的合意形成ができるのだろうかという疑問が残る。
〔飯田哲也氏〕
私が伝えようとしたことが、正しく伝わっていないのだと思う。意思決定の中に合理性がまるっきり入ってこないわけではなくて、かといって合理性にも限界がある。このことを認識して、狭い意味での合理性とナイーブな意味での住民参加型との折衷的な状況が進んでいる。このことをいくつかの事例を交えて話をしたつもりだった。
〔参加者B〕
対立的なディスカッションからダイアログ、それから、考え方としてエコロジカルモダニゼーションという流れにヨーロッパはなっているとの話が飯田さんからあったが、これの解釈については私は別な意見を持っている。飯田さんの話はヨーロッパのことであるが、事実にかなり依存するという日本人の特質を考えないと、日本における原子力の問題は、展開しないと思う。そういう点で鳥井さんと同様、色々な技術の可能性の展開を探ることが必要だと思っている。
〔飯田哲也氏〕
欧州の政治文化をそのまま持ち込むことを伝えようとしたのではない。欧州の事例に学べる部分もあるが、最終的には日本の政治文化の中で独自の路を探らなければならないと考えている。鳥井さんの話は私の気持ちを忖度していただいたと思っている。私は原子力はとりあえず今ある量がそれなりにそこそこ数十年続けばいいのではないかと思っている。明らかに技術のトレンドは小規模分散ネットワーク型に向かっており、これまで今原子力で培われた深みのある知的資産をこの新しい分野に生かせるのではないかと思っている。
〔参加者C〕
原子力というのは本来、水力や火力と違って自然条件からフリーな設計ができる技術、能力、潜在能力あると思う。その一方で、石原東京都知事の言われたことには、社会条件からもフリーな原子力というものができるのでないかという問いかけが含まれていると感じている。この問いかけに対して、色々な議論をすることが重要と思っている。
〔参加者D〕
今ほど、欧州で、原子力が非常に衰退しているとの話があったが、これは見かけ上の話であってこれは本質的な話ではないと思う。単に欧州では原子力が衰退しているという一つの流れが当然のことのように言われているが、経済性、国の規模、環境の問題から見れば一概には言えないのではないか。我々の置かれている状況とヨーロッパが置かれている状況は色々な点で違っており、表面的な傾向を追うのはおかしいと思う。
〔飯田哲也氏〕
イギリスの電力自由化の時に原子力が民営化出来なかった事例等から、原子力は完全に経済性を失っている。元々ヨーロッパはいわゆる破壊型の物質文化的な一神教の世界でやってきて、環境先進国しての取り組みをしているが、だからと言って日本が全くそれとは別だと言うことにはならない。まず国際的に理解できる言葉・理念を語った上で各国の独自性というのが必要だと思う。今、日本は全く孤立しているのではないかと思う。
〔清水昭比古氏〕
ドイツの風力の設備容量がMAX450万キロワットであれば、これは明らかに稼働率が入っていないのであるから、これを考慮すると45万キロワット程度になる。今、日本の原子力は4500万キロワットである。決して単純二分法で考えていた訳ではなくて熟慮の上でやむをえない選択であることをもう一度強調したい。
〔鳥井弘之氏〕
原子力の経済性がないという議論も原子力はものすごく経済的だという議論も非常に個別的な議論をしなくてはならない話で一挙に片づけられる問題ではない。また、政治的イシュー、経済的イシュー、技術的イシュー、資源的イシュー、環境的イシューなどは、それぞれが持っている固有の時間、どの位のレンジで考える必要があるかがそれぞれ違っているのではないか。 残念なことに政治や経済というのが資源や環境を支配していることも確かにあるので、そこはよくこの構造を見て議論していかないと非常に偏った議論になってしまう懸念がある。
〔参加者E〕
長崎で小学校の6年の時に被爆した。原子力が怖いからということでここに来た訳ではない。飯田先生の話では、原子力からは撤退して他の候補にした方が良いと言われているが、どこから代替を持ってくる考えであるか。
〔飯田哲也氏〕
エネルギーの効率化、従来言われている省エネルギーが、最大の代替エネルギーであるというのが欧州的文化では共通の概念である。スウェーデンの政府が一昨年出した公式のエネルギーの見通しでも、エネルギー消費量は2050年に半分になっているが、GDPは年率2%で伸びており、供給は、実質今ある水力とバイオといった自然エネルギーで供給していくビジョンが出されている。
〔清水昭比古氏〕
あくまでも我々はプラティカルな実務者として、ビジョンではなく、現実に手当していくことを考えていく必要がある。もちろん、我々も確かに一般の方に説くべきツール、実績が足りなかったとの反省は必要だ。
〔参加者F〕
常日頃、合理性で議論になっているのは、技術的合理性と社会的合理性の二つが混同されているのではないのかと思う。原子力は、技術的な合理性が十分にあるが、社会的合理性には疑問があるとの見方ができるのではないか。新エネや省エネだけがエネルギーデモクラシーであるのはおかしい。エネルギーデモクラシーの範疇に入る原子力の進め方もきっとあるのではないかと思う。
〔鳥井弘之氏〕
合理性とは理にかなっていることで、理にかなっていることを判定するには目的関数があるはずだと思う。目的を議論しないで合理というのは難しい。
〔飯田哲也氏〕
合理性を考えていくと、鳥井さんの言われる通り理にかなうことであるが、実質、社会的に使われているのは経済性とほぼ同義に使われている。社会的合理性は言い換えると結局は民主主義に尽きるんだろうと思う。
原子力は日本社会の中で政治的にある種のポジションを背負ってしまっている。このことを一旦認めた上で、それを切り離すことが、日本版のエコロジカルな近代化の出発点になるのではないかと思う。
ドイツの風力の件では、何も発電量だけを言いたい訳ではない。すでに2200億円の売り上げと2万人の雇用を生んでいる。10年前には全く影も形もなかったもので、経済の市場の当事者から見るとこの成長というのはものすごく大きい。
〔参加者G〕
原子力に慎重な方は「市民は不安だ、市民は不安だ。」というが、(日本原子力発電に勤めている)私は市民ですか、市民じゃないんですか、ということをお聞きしたい。
〔飯田哲也氏〕
明らかに日本原子力発電という職業を持っている人は通常市民とは言えず、ステークホールダー(利害当事者)であろう。そういう意味では私も市民と言うよりは、利害当事者である。
皆さんに伺いたいのだが、原子力を進めたいのか社会を幸福にしたいのか。後者であるならば、原子力というエネルギー手段だけに必ずしもこだわる必要がないのではないか。
〔清水昭比古氏〕
政治的というとすごく悪という雰囲気があるが、政治は全体の多数の幸福のためにあって、そのために管理組織が必要であり官僚も存在する。一方的に否定されては反発したくなる。また、節約は頭で考えることは易しくても実行となると難しいものである。
〔大木座長〕
エネルギー問題はテーゼありアンチテーゼがあるが、なかなかアウフヘーベンがない問題だと思う。それゆえに、本日のような公開討論会をもっと続けて、理解と認識を深めることが重要と考えるので、日本原子力学会の社会・環境部会もそのような考えのもとで今後も本日のような公開討論会を続けて行って頂きたい。
以上
文責 第6回幹事 山田