PUREX法はいかにして生まれたか?

核燃料サイクル開発機構 河田東海夫

原子力開発の出発点は、1938年暮、ナチス政権下のドイツで、カイザー・ヴィルヘルム研究所のオットー・ハーンらが核分裂の発見をしたことにある。不幸にして、ちょうどこの時期に第二次世界大戦が始まったため、原子力開発は原爆開発のかたちでスタートを切ることとなった。

再処理技術開発の原点は、1940年末から翌年春にかけてのシーボーグらがプルトニウムを発見し、さらにPu239の核分裂性を確認したことにある。マンハッタン計画のもとで、1944年秋から翌年春にかけハンフォードに大型再処理施設が完成したが、これらに採用されたプロセスは、古典的化学分析手法の拡大ともいえる、共沈法の一種である燐酸ビスマス法であった。

アイオワ州立大学のフランク・スペディング教授のもとで、無機化学・分析グループのリーダーをしていた化学者ジェイムズ・ワーフは、溶媒の酸分解による発熱に起因するトラブルに触発され、酸の分解に強い溶媒の研究を始めた。その結果TBPが硝酸に対して安定であり、かつきわめて優れた抽出能力を持つことを発見した。彼はその結果を1949年の米国化学学会誌に発表した。

ワーフの研究結果をウラン・プルトニウムの分離に応用する研究が、直ちにGE社のノル(Knoll)原子力研究所で進められ、飛躍的に効率的なプルトニウム回収法としてのPUREX法の基礎が確立された。その成果に基づきオークリッジのパイロット・プラントが改造され、1950年から約3年間、PUREX法のホット実証試験が行われた。この時期はちょうど米ソの核の軍拡競争が激化し始めた頃であり、米国ではプルトニウムの増産に拍車がかけられた。こうしてPUREX法によるプルトニウム分離回収用の大型プラントがサバンナリバーとハンフォードに建設され、それぞれ1954年と1956年に稼動を開始した。

一方米国化学学会誌に公表されたワーフの研究成果は、戦後フランスで再処理技術の研究を立ち上げつつあったベルトラン・ゴールドシュミットらの注目するところとなり、彼らは1952年から米国とは全く独立にPUREX法の開発を進め、1954年におこなわれた小規模確証試験の成果をもとに、マルクールにフランス最初の再処理工場UP-1を1958年に完成させた。当時ウランは資源量的にきわめて貴重と考えられており、フランスの再処理技術開発は、原子炉燃料用にウラン235の代替物質としてプルトニウムを生産することを目的として開始された。しかし、その後フランス政府は核兵器開発に踏み切ったため、UP-1は軍事用プルトニウムの生産施設の性格を併せ持つこととなった。

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