〔シンポジウム報告〕

「市民社会における科学と司法を考えるシンポジウム」

 −もんじゅ判決をふまえて−

[開催日時]: 平成16年7月26日(月) 14:00−16:30

[開催場所]: 経団連会館 大ホール

[シンポジウムの開催趣旨]

平成15年1月27日に名古屋高裁金沢支部で原告側が勝訴という、いわゆる「もんじゅ判決」が出され、平成15年1月31日、この名古屋高裁の判決に対し、経済産業省は最高 裁に上告受理申し立てを行っている。
  この名古屋高裁の判決をふまえて、今回は、市民社会における科学と司法の関係に ついて、行政法、原子力訴訟、リスク心理学、ジャーナリズムの専門家の方々を講 師にお招きして、原子力の技術とは異なった視野からのご意見を伺い、かつ参加者からのご質問に答えていただくことによって、問題の所在や本質に関する理解を深めるために、この シンポジウムを企画した。

[シンポジウムのプログラム]
基調講演 「もんじゅ訴訟の教訓」 (学習院大教授・行政法)高木 光 氏
パネル討論 

パネリスト:  (弁護士・原子力訴訟)          山内喜明 氏
 
         (富士常葉大教授・ジャーナリズム)   吉村秀實 氏
 
         (東洋英和女学院大教授・リスク心理学) 岡本浩一 氏
  座  長  (学習院大学名誉教授・コミュニケーション) 田中靖政 氏

 

シンポジウムの経過

 開会挨拶 社会環境部会長 岡 芳明

もんじゅへの高裁判決では、技術的判断が一部含まれていて、従来にない判決ということで社会の注目を集めている。判決は、原告の勝訴であったが、安全行政に携わった原子力安全保安院は直ちに「判決は安全を確保する技術体系を理解しないで、安全委員会が行った専門的ナ判断を具体的な根拠なしに否定をしている」として最高裁に控訴したが、法の世界では判決支持もある。高裁判決には、多くの技術者が裁判所の技術的な判断に対して反論が出されたが、原子力は社会の中の技術であることを認識すると、原子力技術者は、技術だけでなく、社会・法の世界についても理解する必要がある。その意味で学会員をはじめ、一般市民を対象としたシンポジウムを企画した。

 

講演者紹介 座長 学習院大学名誉教授 田中 靖政

私は学生の時最初法律学から入って、その後政治学、社会学、米国に渡り心理学を学んできた。学習院大学で教鞭をとっていた時に、原子力の世界に関わることになった。

・法律学で使われる言葉は一般に難解であるが、原子力の専門用語もそれに似ていると感じてきた。もんじゅ裁判は難しい科学と法律がまさにぶつかり合ったもので、一般市民は何に対して何がいいたいのか結論が良くわからないとの意見も良く聞かれる。

・本日はもんじゅ2審判決について、高木先生にわかりやすい言葉でお話いただくとともに、パネル討論では、それぞれ専門家のパネラーの方々から見たもんじゅ判決について議論をしたいと考えている。

 

基調講演 もんじゅ訴訟の教訓 学習院大学 法科大学大学院 高木 光

     もんじゅ訴訟につき法律の専門家でない方を対象に説明する。

まず、これまでの推移について説明すると、1985年から2003年まで18年かかっており、ここまで長くかかった事が、今回の高裁判決に大きく影響したものと思われる。仮に判決がもっと早く出るようなことになっていれば、今回のような高裁判決にはならなかったのではと推察される。

     もんじゅ訴訟は原子力訴訟の中でも特殊なもので、伊方とか女川とかのように軽水炉を扱うものが一般的であり、数もある。

     もんじゅ訴訟は、行政訴訟と民事訴訟の二本立てである点に特徴がある。行政訴訟は、原告が国のあり方がおかしいとして訴えるもの、即ち、原子炉等規制法に基づく設置の許可が違法であると主張するものである。また、民事訴訟は、直接、事業者を相手とし、事業者が運転をすると危害が及ぶ、すなわち原子炉が危険であるから止めろというものである。伊方は行政訴訟のみ、女川は民事のみであった。もんじゅ訴訟はこの二本立てのために争点が複雑化し、長期化したといえる。

     これに加えて、行政訴訟の扱いで迷走したことがあげられる。具体的には、原告が求めていたものは、国の許可のあり方がルール違反であり、きちんと安全審査をしていないというものであるが、その前に入り口論争というもので7年半あまりを費やしたということがある。まず、国は門前払いを求め、許可が違法であるかどうかについて裁判所は審理すべきでないと主張した。この主張を福井地裁は'87年に認めて訴えを却下し門前払いをした。次のステップとして、入り口に関する判断だけを高裁で審理するというのが法律の定めであり、2年後の'89年に高裁は地裁の判断は間違いという結論を出した。ただし、原告の適格性として居住地区をもんじゅからの距離で区別し、ある程度以上(20km)遠いものを排除した。次に、この入り口判断に関して最高裁の判断を仰ぐこととなった。最高裁は'92年の判決で、高裁の判断は誤りであり、遠いものも適格性をもつとした。住民全体を的確として中身の判断をすべきとしたのである。全て、入り口の問題であり、中身は、一から地裁でやりなさいとなった。

     このような入り口論争は、国が訴えられた場合に、よく国側が使う手である。伊方の場合もそうであったが、最高裁の判断は、住民は訴訟可能というものであった。

訴訟の中身(本案)であるが、これは、大臣が許可をした結果が正しかったかどうか、原子炉等設置法に従って許可が出たのかどうかということだが、この場合に、もんじゅ訴訟の第二の特徴として「無効確認訴訟」という通常の伊方等の場合とは異なる訴訟となったことがあげられる。これは、通常の取り消し訴訟とは異なり、原告が訴訟を起こすのに許可が出てから長時間かかった為に、そうなったものである。法律によれば、遅れて出てきた住民側の提訴は非常に不利に扱われるようになっている。通常は許可が出てから三ヶ月以内に訴訟を起こすのだが、それ以後に訴訟を起こすと、原告側は、これを違法とするに、単に違法というだけでなく、違法の重大性と、その明白性を明らかにする必要があるとされている。裁判の通例から言うと、この無効確認訴訟というのは、ほとんど勝ち目のない訴訟と考えられているものである。従って、法律の専門家の間では、このもんじゅ訴訟は、原告が頑張っても勝てないだろうと思われていたものである。

・一審の福井地裁は、長年の審理の結果、2000年に判決を下した。時間がかかったのは、行政訴訟と民事訴訟を並行したためである。結果は原告の完敗であった。行政訴訟に関しては、許可には重大な違法性があるとは認められないとし、民事訴訟においても、重大事故によって被害が生じる蓋然性は認められないとした。この間、'95年にはナトリウム漏れ事故があったわけであるが、この事故についていろいろ言われたことは、裁判所の判断には影響を与えなかった。福井地裁は法律に照らして淡々と判決を出したといえる。これは、ほかの軽水炉に関する結果から見て、相場という印象であった。

     原告側は控訴し、これが、2003年の名古屋高裁の判決となる。こちらは、行政訴訟だけの判決であった。名古屋高裁は審理の過程で、民事を切り分けて行政訴訟のみを先に判断するとしたものである。結論は原告完勝であった。民事訴訟については原告側が行政訴訟に全力をそそぐという方針に基づき取り下げたといわれている。

     原告はなぜ勝てたか。ひとつのポイントとして、許可には重大な違法性の明白さについての点を、高裁は、どちらかというと住民側に有利なルールを採用し、違法が重大であれば、そのまま認められるという判断をしたと思われる。これは、最高裁での判断ポイントになると思われる。

・この高裁判決はショッキングに受け取られた。まず、科学、技術の専門家からは、科学や技術のわからない法律家が、大胆な判断をしたとみられている。技術について、やや乱暴な判断をしているとみられる。私の印象では、技術や科学関係者の間では、この判決は全く受け入れられないというのが大多数と思われる。だが、法律の世界では、かならずしもそうではなかった。法学者の中では、講演者が評論を出してコメントする前は、どちらかというと、判決支持の動がほとんどであったといえる。とりわけ判決後すぐ出た論評は判決支持がほとんどであった。しかし、時がたつにつれて、この判決は少し無理をしているのではないかという論考が多くなった。これを、どう考えるかが重要なポイントである。

科学技術が裁判の対象になった場合に法は何を裁くのか、という問題だが、恐らく技術者の方は、もんじゅ高裁判決を見て、裁判官が技術的判断を真っ向から否定したととると思われるが、講演者は、これは行政訴訟の判断であるので、この判決は技術者の判断(もんじゅの設計は安全である)を直接否定しているものではない、ということを述べておきたい。行政訴訟は、「もんじゅの設計が安全であるということを行政が判断した。その行政の判断が間違っていたのかどうかを裁判所が見直すこと」であり、もんじゅが安全かどうかを生で判断することにはなっていない。ここが混乱を招くところであろう。

行政訴訟は国、大臣の許可が原子炉等設置法のルールにかなっているかという問題である。役所の対応が正しく合理的であったかどうかということを対象とする。民事訴訟には国は出てこず、住民は、生命に危険ありとして事業者と直接争うものである。この場合には、裁判所は生の安全性の判断をすることを強いられるのである。本当に重大事故が起こるのかどうか等を裁判所は判断する必要がある。したがって、この民事訴訟というものは、技術の素人である裁判官に重い役割を要求するものである。裁判官は、自分はわからないのだが専門家の意見を聞いて、本当に危ないかということについての心証を考えて、危ないと思ったら止める、危なくないと思ったら、そのまま許すということを強いられるのである。それに対して、行政訴訟ではそういうことは必要ない。これは、行政当局が安全であるということの責任を負っているので、まずは、行政機関が原子炉等規正法にそって審査してよければ許可するのであり、行政機関が社会においてどの程度の安全性のものが許容されるかということを決める責任を負っている。民事訴訟では、いきなり裁判所が責任を負っている。行政訴訟では、まずは行政機関が判断し、その判断が間違っていたかどうかを裁判所が二次的に判断するのである。もちろん、法律の世界であるので、行政機関と裁判所の意見が違えば、裁判所の判断が優先するとなるのであるが。その場合でも、裁判所は行政機関と同じ立場でその判断をすべきとはなっていない。行政機関の裁量といわれるものが存在する場合があるからである。

・行政訴訟で役所が判断した決定を裁判所が見直すということになるが、この時に、どの程度強い見直しができるかということは領域により異なっている。例えば、租税の場合、まず税務署長が判断し納税者は不服があれば裁判に持ち込む。これも行政訴訟のひとつであるが、この場合は裁量というものはない。裁判所の判断は100%優先される。ところが、原子炉等規正法の場合、'92年の伊方の最高裁判決により行政機関の判断をある程度尊重しなくてはならないとされている。これを専門技術的裁量があると業界では称している。裁量というのは、法の枠内における判断・行動の自由ということであり、裁量を尊重するということは、裁判所は行政機関の判断が違法であるということを遠慮するという意味である。

・そこで、今回の控訴審判決が、この裁量をきちんと尊重したのかどうかが焦点となる。私見であるが、今回の控訴審判決は、結果的に、裁量を否定してしまったのではと思われる。悪く取ると、判決は、いろいろと考えた結果、どうも、もんじゅというのは危ないという心証をどこかで得てしまい、そういう心証が結論に影響して行政機関はきちんと審査をしていないという判断にもっていったのではないかと思われる。前述のように行政訴訟と民事訴訟は異なるのであるが、この区別をどこかで忘れてしまったのではないか、と思うわけである。そこが、おそらく今回の高裁判決の間違っているところであり、おそらく最高裁では、そこが是正されるのではないかと思われる。が、どうなるかはわからない。というのは、法学者の中には判決支持の立場もあり、高裁判決も善意に読めば、生の安全性の判断をしたのではなく、国がきちんと緊張感をもって判断をしていない、審査がずさんであったということが言いたかったのだという意見もある

・まとめとしては、もんじゅ訴訟は、反省材料を与えた裁判であった。確かに原告側は、非常に勝ち目の薄い争いを強いられ、しかも入り口論争で長年を費やした、気の毒だ、そういう心情的な思いもあり、一度ぐらいいい思いをさせても良いのではとの思いもありそうだが、純粋な理論的な判断からすると、やや無理があったと思われる。但し、法律の世界の判断は政治の世界の判断と切り離されていない訴訟も政治的な意味を持ち、裁判官も人の子で、社会通念を受け入れて判断をくだす。そして法律は理詰めと思われているが、実は結論は感覚的に出て、後から理屈をつけるというのもある話である。従って、高速増殖炉はやめるべきだという政治的判断があって、それにあわせて個々の判決が書かれるというのも排斥できない。

・日本人は情にかなった判決を好む傾向にあり、それも含めて、この高裁判決というのは法律家にとっても技術者にとっても、教訓を含んだ事案ということができよう。最後であるが、科学裁判として論じられていて裁判で科学について論じられるのかという命題があるが、技術と科学はわけて考えるべきではと考えている。

(基調講演への質疑応答)

Q.(電中研 田邊氏) 科学と技術を区別すべきと仰ったが、裁判という非常に現実的な事例に対する裁判官や司法の判断に対して、この二つを分けたほうが良いという背景には、どういうものがあるのかをご教示願いたい。

A. 今日の話の中であれば、安全というのは安全か非安全か、答えが出るのか、あるいはどの程度安全なら十分安全というのかという捕らえ方があると思うが、通常、科学裁判というのは、原発というのは安全なのか安全でないのか決まるはずであり、これを裁判官が決めて良いのか、あるいは良くないのかということで対立があったと思う。問題はそうではなくて、どの程度安全なら十分安全という風に割り切るかというのは、社会的選択であるので、おそらく技術者は、法律家と同じようにあれこれ利益を考えて一定の割り切りを行っていると考えられる。その技術者の判断というのは、おそらく法律家の判断と性格は似ていると思われる。それは、実践的な判断だと思われるので、今まで言われてきた裁判官が真理を決めるのはけしからんという、無駄な議論は排除されて、問題が整理されるのではないかと思う次第である。

 

Q.(電中研 長野氏) 高裁判決が「隠れた実態的判断代置方式」に陥っていることに関連して質問したい。

高裁判決は、もんじゅが安全か否か野判断をしたのではなく、安全審査の手続きがずさんであったか否かの判断をしたのであるとのお話であった。私見の二番目には、高裁判決はある面では、安全か否かの中身についても審査し、判断しているとの記述がある。こう結論された考え方をお聞かせいただきたい。

もう一点は、もしこの高裁判決が安全性の中身について判断しているとしたら、行政訴訟の判例主義からして、このような判例が今後も何回か出ると、行政訴訟においても安全性の中身について裁判所が判断をすべきであるという流れが定着することがありうるのか。

A. 最初の点であるが、講演者の基本的な立場は、本来は手続きに絞って判断するに徹すべきなのに、そうなっていないというものである。そういう目でみてみると、非常に微妙に記述されており、巧妙に記述されており、ある部分は手続き的不備を言っているが、全体を見ると中身に入っていると思われる。で、「隠れた」としている。二番目の点であるが、実態的判断にはいることはしないというのが'92の伊方の最高裁判例であるので、その建前を下級審が覆すことはできないと思われる。従って、ご懸念のようなことは起きないと思われる。

 

Q.(学習院大名誉教授 田中氏)高裁から最高裁に移っているが、高裁で出た判断について最高裁はどういう手続きで最高裁自体の判断をするというのか、手続き的な問題と中身の問題につき、コメントいただけるとありがたい。

A.日本の裁判は三審制で地裁、高裁、最高裁となっているが、地裁と高裁は事実を認定し、それにルールを適用して答えを出す。最高裁は、事実認定はしないで高裁までの材料で考え、法律の適用につき考えることになる。高裁は、今回、設置許可が無効で重大であるとして答えを出したのであるが、そのルールが間違っているということであれば差し戻される。例えば、最高裁の立場が、違法が重大であるだけでなく明白である必要があるということになれば、高裁判決はひっくりかえることになる。あくまでも高裁が用いたルールがおかしいという場合に高裁判決を差し戻すのであり、中身の判断はしない。

 

パネル討論

【相互討論に先立ち、パネリストから基本的なスタンスに関する意見が提示された】

 

「モラルハザードと組織風土」岡本教授

 東洋英和女学院大学 人間科学部 教授 岡本浩一

JCO事故調査委員会のメンバー)

 ・国民の間に安心が広がらない、あるいは「安全と安心は違う」といった考えは、組織風土に対する不信感が大きな要因となっている。

・事故調査委員会で関わってきたJCO事故を例にすると、JCO事故は決して原子力特有のものではないプロセスで、背景要因として特に注目したのは極端な労使協調であった。

・不信感を招いている組織風土の根底にあるのは、ホロコースト等でも説明される権威主義で、その表現形として「属人思考」を提唱してきた。

・属人思考とは事案の記憶、処理、意思決定において「人」情報を重視し「事柄」情報を軽視する傾向で、特徴としては、日本人にありがちな忠誠心重視、犯人捜しの強調などが、人の要素の重さを招き風土として染み付いてしまう点。

 ・属人主義のデメリットとしては、案件の細部への注意が疎かになったり、意見の貸し借り(前回は自分をサポートしてもらったから今度は自分がしなければならない)が起こったり、イエスマンが跋扈することにより、組織としての自己評価・現状認識が甘くなり不正・違反を容認しやすくなること。

・属人風土に関する研究を通して、組織における違反の容認の2パターン(個人的な違反の容認、組織的な違反の容認)について分析を行ってきた。

・特に問題視するべきは組織的や職場の利益を上げる違反の容認、JCOや東電問題もこれが原因。組織にとってはこうした違反がばれなければプラスという考えを低減させるのが目的となる。

・研究の結果、次のことがわかってきた。

 −属人風土と組織違反の容認とは近似性が認められる

 −ただし近似性が認められるのはこの関係だけで、命令系統の整備、個人的違反の容認と属人風土は近似性が特に認められなかった(命令系統整備しても組織違反は減らない)

 −組織風土が属人的になればなるほど深刻な組織的違反が生じやすい

 ・結論としては、以下の通り

 −組織内の安定した人間関係に依存した属人的思考を減らさなければ組織的違反は減少しない。

 −命令系統の整備(権限の明示化、マニュアルの整備等)により、個人的違反の改善にはなるが、組織的違反の改善にはならない。

 

富士常葉大学 環境防災学部 教授 吉村 秀實

NHK科学解説委員、安全委員会防災委員会委員)

 

 元々ジャーナリスト(NHK)出身で疑い深い。あらゆるものには光の部分と影の部分があると思う。原子力は長く光の部分だけを強調し、絶対安全などの語を軽く使っている。これなど却って分かり難くうさん臭くしている。影の部分にも注意を向けるべきである。報道の自由は重要で、体制を批判することも必要であり、これは時としてジャーナリストには命がけの仕事である。99年に東海村のJCO事故があり、1年後に再発は防げるかの討論番組を組んだときのこと。推進派、反対派、中立派からそれぞれ参加者を求めたが、安全委員会と省庁の担当は参加を断ってきた。文書で理由を求めたところ、担当者が忙しいとか、海外出張というものであった。番組出演はよい機会としてそれより重要と考えてもよいものなのに、実際は反対派と同席するのを嫌ったからに他ならない。参加しなかった省庁への視聴者からの批判が相次いだ。

 安全委員会は本当に国民の安全を守ろうとしているのか、単にお墨付きを与える機関なのかと問うた。この判決への安全委員会の反論もうさん臭いものがある。システムの中枢部では安全維持ができても、周辺部ではトラブルが続出しているのではないか。下請け企業の体制で、安全のための余裕がなく、効率のみ求めることが行われている。

 JCOの時の国や事業者のコメントでは、「原発では起こりえない」としていたが、安全確保の要を思い知ったはずの当事者の東電が、その後検査データ隠しを行っていた。よくバブル後の失われた10年と経済界では言うが、原子力も同じではないか。トラブル隠しなどで失われたことは一流組織の特権意識の帰結である。そこには原子力は特別で、自分らの意見は正であるとする自己中心が行き渡っている。マスコミから見れば判決などのくだらない心配を続けていて、司法を語る資格などあるのかと問いたい。今日原子力学会に呼ばれて、その学会の存在を初めて知った。これまで、情報学会、機械学会、建築、災害等の学会と交流してきたが、よく知られており、知られないのは唯我独尊でやっているせいではないのか。

 静岡では運転停止を求める訴訟があるが、これを学会はどう受け止めているか、考えが一般常識と乖離していないのか。安全確保の方法、日本の原子力のこれから、核燃料サイクルへの見解を学会は示して欲しい。事故が起きたら、なぜ起きたかを徹底追及してもらいたい。誰が起こしたかの責任追及より大事である。その視点を持った業界であることを望みたい。司法を裁く前に、事故の要因を分析する機関たるべきである。 

 

 

弁護士 山内 喜明

(原子力訴訟の国側代理人、安全委、原子力委の専門委員会委員)

 

もんじゅの民事訴訟を担当している。民事訴訟取り下げに対しては、やっぱりという感じを持っている。このもんじゅ判決については技術の分からない裁判官がやったという意見が強いが、「そんなことは裁判官に分かるか」という態度では通用しない。原発が危険だから運転をやめなさいと言われた時に、裁判官に安全だという心証を抱いてもらわないと勝てない。伊方の判決はあくまで最高裁の判決である。一審、二審では原発は安全ということを分かってもらわないといけない。説明責任であり、素人に分かっていただくということである。素人に分かってもらえないものが裁判官に分かってもらえるだろうか。安全と安心は違うと先ほど誰かが言っていたが、100年も安全な状態が続けば安心だが、裁判官に安心感を持ってもらうためにはどうするのか。そのためには手続きの厳格さ、規準の整備が必要である。これがなかなかできないことの問題点は原子炉規制法にあるのではないか。50年も前にできた法律であり、この法律には「こぶ」がいろいろできているので整理が必要である。もんじゅ訴訟で負けたということが整理するための最後の機会となったのではないか。第二のもんじゅは遅かれ早かれ出るだろう。行政における規制の整備、充実は必至である。

 

 

パネル討論

(パネラー相互の討論)

高木)私は訴訟に焦点を絞ったが、他の3人は「社会における」ということに重点を置いていた。岡本さんは企業風土を指摘されているが、設置許可と行政訴訟は別の話という視点を持ったらどうか。吉村さんの話しに関して、過去には確かに絶対安全といった説明をしてきた。行政訴訟は事故が起きる前に裁判する未来裁判の形になっている。山内さんの話しでは、負けたことを反省材料にしなくてはならないということを言われたことに意外感を持った。業界の常識は世間の非常識である。

岡本)山内さんの「50年前の整備のまま」という意見に自分の考えたものと同じことが入っている。原子力の損害保険を例に取ると、日本では全体を丼勘定でやっているため、原子力の損害保険に影響することに対して反応が穏やかであるが、外国では強い反応がある。全体の制度設計の見直しが必要ではないか。

吉村)最近の企業不祥事と、この10年近く繰り返してきた原子力関連の事故は極めて共通するものがある。キーワードは「隠蔽体質」、「唯我独尊体質」である。組織のトップはどうあるべきかを本田宗一郎が言っている。「企業にとっていい情報は1、2週間遅れて入ってきてもいい。悪い情報はすぐ入ってこないといけない。」ある会社の記者会見で、現場の責任者が悪い話しをしたら、トップがその場で「君、それは本当か」と言っていた。トップが裸の王様になっているのではないか。平時の羊、戦時のライオンでなくてはならない。普段がライオンで、いざとなったら羊になっているのではないか。昔はうるさ型の社員がいた。今はうるさ型の社員はほとんどいなくなってしまったので、トップに悪い情報が行っていない。

山内)原子力も他の事業と同様に安全に配慮してやってきたが、こういう時代になって生かされているか、継続しているか、多少不安になってきている。

田中)ドイツの研究所で1970年代から原子力発電所のぜい弱さを研究しているが、法律と原子力は裏と表である。ドイツでは原子力の専門家は自分たちのやっていることが法律と関係深いという認識を持っている。環太平洋原子力会議に出席していた時に、土曜日に炉の底部から冷却水が漏れ、3日目に国も企業も動き出し、マスコミ対策委員会もできた。マスコミに叩かれたので体制、組織図を一新したということがあった。

 

 

会場からの質問

(社会技術研究システム 田辺)高木さんへの質問。@裁判の内容面、手続き面について。法科大学院もできて技術系などをやってきた人が裁判官になる時代である。裁判所が手続きだけでなく、内容も見るようになってくると思う。これは行政に対して手続きをしっかり見ろという警告ではないか。Aアメリカの司法取引のように、免責してやるから洗いざらい白状しろというのは日本では難しいのか。

高木)@私は技術が分かるから中身に入っていいということに対しては、NOだと思う。今よりもっと悪い判断になる。技術はどんどん進歩するものであり、なまじ昔の技術を持っていても役に立つとは思えない。A日本には日本での前提がある。中身には入れるとは思うが。

 

東電 松永)山内さんへの質問。今回のもんじゅ裁判では裁判官に十分に説明したと考えていいか。吉村さんへの質問。鉄道や水難事故では第三者機関がある。こういうものを設立するよりも個人個人の倫理観の向上の方が重要か。

山内)訴訟のやり方が大きな問題だった。公開の場で尋問をやるのではなく、整理という名目で裁判官に理解してもらう形でのやり取りであった。説明のうまい、へたにより、本来の訴訟という観点からは筋道の違うとらえ方をされてしまう。もんじゅの場合は本来の手続きでやれば違う結論が出たかもしれない。合議はするが、心証に基づいて理屈を作る。もんじゅでは心証に基づいて作られたのか。

吉村)交通事故の原因調査では、警察官は人の過失を追求するのが仕事である。車自体の原因、道路環境の要因、問題というものを追求してこなかった。人間はミスを犯すものである。また同じことを別の人が起こすかもしれない。調査分析して総合的に要因調査をしないと防げない。

高木)(山内さんへの質問の件)地裁、高裁までに裁判官を説得しなくてはならない。

吉村)今の高木さんの発言で説得と言われたが、説得と納得は似て非なるものである。これまで光の部分のみで説得でやってきたが、影もあるのでこれからは納得してもらわないとダメである。

 

(電中研 長野)田中さんへの質問。規制法が時代にそぐわないということについて、どうお考えか。高木さんへの質問。判例が2つ、3つ続くと定着するのではないかということで、アメリカのように手続きだけ見るやり方と司法が中身まで見るドイツ的方向とがあるが、それはそれで市民社会としてのあり方だと思うが、この点についてどうお考えか。

田中)IAEAやNRCなどでは社会で利用する場合の原理原則を考える。非常にオープンであり、起こったことは全て公開する。担当省庁が今どういう手続きで動いているか、どんなふうにして処理しているかを一般の人に分かるようにする。これは法の体系の中で度外視されていることである。公聴会を開いても遠くにいるから出られないという不公平をなくす方法として、交通費を配慮するなどの方法がある。これからの日本もだんだんこういうことの影響を受けるかと思う。

高木)役割分担としてアメリカ型がいいということではない。ドイツはかつては100%チェックするということで無理があった。もんじゅ判決は昔のドイツの裁判官がやったような感じである。ドイツ式を少し直すと日本にはいいか。

 

原産会議 宅間)この度原子力学会の会長となる。原子力学会を知られていないということは恥ずかしいことである。原子力学会は技術専門家のサロンのようなものと思われているが、社会の声を聞き、社会に発信することが重要。倫理規定、行動指針を作ろうということで倫理委員会を設けている。学会の皆さんに是非浸透させていこうと思っている。今日的な意味での自主・民主・公開も大切である。

 

田中)今の宅間学会長の発言を最後の締めくくりとしたい。

 

以 上

(この資料は、以下の方々のご協力によって纏められた聴講録である)

新谷聖法(JNC)、坂井 秀夫(東電)、澤田 隆(三菱重工)、傍島 眞(JAERI)、

室岡 裕之(日本原電)、宮沢龍雄(前部会長)

 

編集委員のコメント

1. 基調講演の高木先生の指摘にもあるように、原子力の技術者は、もんじゅの判決が、行政訴訟では異例にもんじゅの危険性を指摘していることについて、技術の分からない裁判官がそこまで技術的判断に踏み込むのかとの疑念を持っている。講演者は法律家として、行政訴訟と民事訴訟の役割と状況を解説してくれたが、その中では当然、判決が言及した技術的危険性の判断の内容の是非については全く議論しなかった。この点は別途に解説を期待した聴衆も多かったのではないかと思われ、ある意味で、法律家と技術者の交流の障害と言えるかも知れないが、技術的解説や判決への反論等は、安全委員会声明や学術誌論文で既になされており、合わせて参照することが理解を深めることになるであろう。

 

2.高木先生のお話は技術系の人間にも判りやすいものであったが、パネル討論がやや、発散し、社会から見た科学者や技術者の行動のあり方についての注文だけでなく、科学技術裁判に向けた対応への充分条件まで踏み込んだ中身が聞くことが出来ればより効果があったように思われる。

 

                                   以上