<原子力とともに歩んだ50年>

池亀亮

 

 

(1)原子力開発の黎明

原子力技術は軍事利用、特に原子爆弾の製作を目的に開発
原子炉も爆弾用プルトニウムを生産する手段、原子力潜水艦の推進用として開発

原子爆弾を受けた日本にとって特に不幸なスタート、今日もその影響は大。

我が国の原子力開発のきっかけ、1953年アイゼンハウアー大統領の国連演説
「アトムズ・フォア・ピース」

日本の反応は早く、1954年、議員提案による最初の原子力予算が成立。

1955年、第1回ジュネーブ会議、それまで軍事機密であった多くの資料が公開された。
「原子力三法」制定、原子力委員会、科技庁の設置

55〜57年にかけ原子力研究所、原子燃料公社、放医研の発足

産業界にも夢が拡がり、56年原子力産業会議が発足。

東京電力は55年11月に社長室に原子力発電課を設置

当時、我が国の経済は朝鮮戦争特需をバネに高度成長のスタートラインにたつ、電力需要の伸びが顕著、新鋭火力の建設に追われていた。原子力発電課発足時の木川田副社長(当時)の談話に見られるように10〜15年後には水・火力の限界が来るというのが、経営トップの認識であった。

原子力発電課は課長以下5名で発足。当時私は切明水力建設所で働いていたが、発電機初並入の直後、転勤の通告を受けた。

机の上に第1回ジュネーブ会議資料の青焼きの山、これを独身寮に持ち帰り、要約を作り翌日論講、あたかも“教師なき学校”であった。政府系研究所、大学でも似たような状況であったろう。

 

(2)原子力開発への期待

太平洋戦争の直接の原因は石油の禁輸、戦時中の「石油の一滴は血の一滴」というスローガン、木炭自動車の思い出、旅順高校の学生寮の経験

敗戦後の何もない時代、停電が当たり前の時代、エネルギー・セキュリティの重要さは誰の目にも明らか

私が電力会社を就職先に選んだ理由:電気工学を専攻したこともあり、停電解消、これこそ天職と考えた。

原子力は無資源国日本に新たなエネルギー源を与えてくれる可能性、特に増殖炉が成功すれば…。

戦争に敗れ、資源もない日本に残されたものは人とその智慧、技術立国しかない。

石油やガスと違って原子力は技術が生んだエネルギー、技術立国の日本に最適のエネルギー

最初の原子力長計には、こうした共通認識。誰も異議を称えなかった。

敗戦からの日本の再建にとって基盤となるエネルギー確保と技術立国のシンボルとして原子力は希望の星であった。

 

(3)原子炉開発をめぐる論争

1956年、当時。いわゆる素粒子論グループは日本独自の国産技術で基礎研究に重点を置くべしと主張

一方産業界は、戦中戦後にかけて技術開発に大きな遅れがあり、先進国の技術を導入して急速にキャッチ・アップが必要、原子力技術についても例外でないと主張

原子炉タイプについても論争

天然ウランvs濃縮ウラン、1956年、当時。濃縮ウランを生産する唯一の国、米国で濃縮ウランの民間所有が認められていなかった事もあり、天然ウランを使う黒鉛ガス炉や重水炉支持者が多かった。

 

 

(4)コールダーホール改良型炉の導入

・1956年5月に来日したUKAEA理事のクリストファ・ヒントン卿が開発中のコールダー改良型炉の発電コストと競合できると表明し、大きな反響

動力炉の早期導入について、初代原子力委員長正力松太郎氏は動力炉の早期導入論者。コールダー改良型に導入に好意的、導入の気運が高まった。

この炉を導入する会社の設立を巡り、いわゆる正力河野論争。正力さんは民営を。河野さんはどちらかというと国営を主張

・結局、妥協が成立して民間比率80%、政府(電発)20%出資する日本原子力発電(株)を設立

 

(5)スローダウンから軽水炉時代へ

・1960年代に入ると、実用炉といわれたドレスデン(BWR180MW)とヤンキー(PWR134MW)が営業運転

・しかし逆にスローダウンという傾向がはっきりしてきた。

・原因は大きくいって3つあり

・第1に原子力発電の技術開発が当初の希望のように進まなかった。

・第2に中近東を中心に、これまで想定されていた規模をはるかに越えるような石油ガス田が発見された。その結果エネルギー供給が増大して価格の低落をもたらした。

・第3に丁度、火力技術の革新期にあたり、高温、高圧、大容量の火力ユニットが開発され、火力発電コストの低下が顕著であった。

・スローダウンの原子力界に活を入れたのは、1963年にアメリカの電力会社ジャージーセントラルがオイスタークリーク(BWR520MW)の計画を発表したこと。この時、火力を下回る4ミル/kwhと評価を発表している。

・翌年1964年、アメリカで核燃料民有化法案が成立しておりまして、軽水炉の燃料である低濃縮ウランの安定確保の見通しが立つ。

この頃には黒鉛ガス炉のコスト高が明らかになり、軽水炉の優位は明らかとなる。一方で濃縮ウランはアメリカが持っているので、いってみればアメリカに首根っこを押さえられるということから、天然ウラン派がなくなったわけではない。

 

(6)東京電力の選択

・PWRは原子力潜水艦の推進用に軍事費を使って開発され、商品化もWH社。

BWRはPWRの出力急上昇時の安全性を立証する目的で開発。GE社が商品化を考えた。

その当時の文献を見ると、炉心の中で沸騰が起こるという現象の核的影響の解明がそんなに進んでいなかった。

・一方、BWRはシステム構成が単純であり、安全性についても経済性についても大きな潜在的可能性があると評価した。

・旧来の火力発電の技術については東電とGE社は長い信頼関係で、一方WH社との関係は薄かった。トップはGEの技術開発力に期待するという事でBWRを選択。実際に何が起きたかというとBWR技術はPWRに比べて未知の部分が多く、開発途上でより多くの困難に直面する事になる。現在はこれらの困難は基本的には解決されて、私はBWRはPWRより未来は開けていると思う。

・一言でいうと「ザ・シンプラー・ザ・ベター」
東京電力は、なぜBWRを選んだかということを一言で言うときには「ザ・シンプラー・ザ・ベター」という事にしている。

 

(7)福島1号機

・福島の1号機が決まったのは1965年。東京電力にとって最初の原子力発電所、GE社にも経験が少なく、ライセンシーである日立、東芝にとって殆ど初めての経験

・東電でも色々考えて初めてのターン・キィ契約とした。自動車を買うときと同じでキィを差し込めば運転できるという契約

・初期トラブルというのはどんな機器にもつきものであるが、1号機では予想を遙かに越える困難に直面

・火力と違ってBWRは運転中はタービンプラントも放射線レベルが高く、保修作業などの被爆管理が重要

・特に1号機について言えば建設中の養生不十分でサビが発生し、それが炉内で放射化して燃料破損もあり、放射線バック・グラウンドが高く被曝が増加

・さらに機器の設計変更がありまして建物ができてから設計が変わったり、耐震設計変更でアクセス性不良で無駄時間が多く、その間の被曝

・スペインのニュークレノール社の同型炉が2年程先行していたので、先行機のトラブル経験を反映できると期待していたが、スペインの計画が遅れ、福島1号機が同型炉の初号機となり、一般初期トラブルに加えて、初号機トラブルも経験

・1971年3月に1号機が営業運転に入ったが、いつ止まってもおかしくない状態。しかし、やがて初期故障も次第に解消

・1974年にSCCが発見された。全世界のBWRに共通する大問題へと発展。SCCに関連する補修作業が増大、時に停止を余儀なくされた。

・一般のトラブル、給水ノズルの熱疲労割れ、中性子計測装置の流動振動による燃料チャンネルの摩耗が重なって、一時は営業運転していた3基全てが停止した。

BWRのSCCはPWRにおけるSGの細管破損と共に軽水炉開発初期における最大の問題となった。

1997年に最初のシュラウド交換を行った。即ち、圧力容器内部での保修作業の可能性を実証した。これは保修技術の成熟を意味するもので、1号機運転開始から四半世紀を要した。

 

 

(8)国産化と改良標準化

・福島1号機は火力にも前例のないターン・キィ契約であったが、GEがスケネクタディで製作するタービン発電機を除き、圧力容器をはじめ多くの機器は国産であった。

・火力では初号機輸入、同容量、同設計の次号機からは国産とするのが国と電力会社のポリシー、原子力でも2号機以降火力方式

・国はライセンスに基づく国産化に止まらず、自主技術開発による問題解決を目指し、1975年軽水炉改良標準化計画をスタート。財源は電源開発促進税

・電力はこれと並行して電力共同研究の制度をスタート

・改良標準化計画で先ず取り上げたのは不具合設備の改良と標準化、次いで格納容器の大型化。夫々所期の成果を収めたが、同時にコストアップの要因となった。

・これらと併行して、BWR技術の部分的改良に止まらず、次世代の理想的なBWRのあるべき姿を構想する動きが出た。

・その背景にはGEが売り込んできたBWR−6、MarkVに対する否定的評価も一因

 

(9)ABWRの開発

ABWRの開発の特長

@  電力会社のリーダーシップ

A  明確な目標

B  GE、日立、東芝の協力

 

・東電が開発費の半額負担、後にBWR電力の参加、国の実証試験

次世代BWRには原子炉のコンセプトのしぼり込みが重要。BWRの単純さの追求

 

 

・過大な開発費用を避ける必要性、可能な限り世界に現存する技術

・最も単純なBWRは自然循環型、しかし出力密度小、経済性の面で既存BWRに及ばずと評価

・GEは最終的には給水ポンプ駆動ジェットポンプを目指したが循環する水の10%が蒸気、すなわち給水であるから10倍の水を駆動する必要がある。それが結局、技術的な壁となった。

・アセア・アトム、AEGはインターナル・ポンプを採用

我々はインターナル・ポンプに着目した。インターナル・ポンプ方式の利点

@   130m位ある外部再循環ループがない。これがないという事で、この為の補修、点検の為の人工、作業線量の減少

A   高NPSHを要するポンプが不要なため圧力容器の重心が低下して耐震設計上有利になる。

B   ドライウェル、ウェットウェル容積小=格納容器小型化=鉄筋コンクリート製の可能性=大幅なコストダウンと建設工程の短縮

C   最大径配管破断時燃料露出を防止可能

・微調整制御棒駆動機構(FMCRD)の採用

@  複数本ギャング駆動による起動時間短縮

A  水圧スクラムのバック・アップとしての電動駆動による挿入で信頼度向上、しかしコストアップ

・安全系を含む全面ディジタル制御の採用と大型表示盤の設置

1996年、世界初のABWR、柏崎刈羽6号機営業運転に入る。構想の段階から20数年の歳月。翌年第一線を退いた私にとって技術者としての記念碑となった。

 

・ABWRは現在、世界で最も先進的かつ実証された軽水炉

・ABWRで手をつけなかった課題 炉心の構成を初め、多くの点で更に大幅なコストダウンの可能性

 

(10)燃料サイクルの開発

・1956年に初めて原子力長計ができて、その中で既に増殖型動力炉を指向

・1966年「動力炉開発の進め方の基本方針」の、この中で高速増殖炉と新型転換炉を開発する方針の他に国内における核燃料サイクルの確立、プルトニウムは将来的にはFBRで利用を図るが当面、熱中性子炉で利用することを明確に記述

・この方針に従って、ウラン探鉱、採掘、濃縮燃料加工、再処理、HLWの処理まで一貫して動燃(原子燃料公社を改組)が開発

・動燃(JNC)は、その後、ウラン探鉱、採掘、濃縮技術開発から撤退

・東海再処理工場については1965年に技術導入の方針。茨城県議会の反対などがあり実際に建設開始は1971年

・インド、パキスタンの核実験、カーター新政権の姿勢、日本原子力協定に基づく米国側の同意を得る件が難航。実際にJPDR使用済燃料のせん断、溶解は1977年

・商用再処理工場について、電力はフランスの先行商用プラントUP―3(800t/年)の技術導入を、動燃は東海工場の拡大である400t/年を国産技術で進める事を主張

・1989年、電力中心の日本原燃サービス(現:日本原燃)が事業指定申請

・1993年に六ヶ所村で建設開始、完成は2005年予定

・六ヶ所工場の建設費高騰は、価格決定がバブル末期、競争の不在、実証プラント(原子炉でいえば実証炉)の性格によるもの

 

(11)原子力発電の現状と課題

東京電力の原子力発電設備はBWR17基、17,300MW、全発電電力量にしめる比率42%

全国で51基、44,920MW、全発電電力量9,400億Kwhの内34%、運転成績を示す設備利用率は80%越え

JCO事故や浜岡の事故など、改善すべき点は多々あるが、全体的に見れば原子力発電所は順調に運転

にも拘わらず原子力をめぐる社会環境は依然、厳しい。

その原因は突きつめていくと放射能に対する恐怖。この恐怖は日本が経験した原爆の悪夢と分かち難く結びついている。

放射線に不安を感じながら原子力発電を指示する人の多くは無資源国日本にとってエネルギー・セキュリティが重要と考えている。

同時に原子力は化石燃料と経済性で競合することが条件

原子力の競争力は対抗馬である化石燃料の価格に相対的

現状:償却の進んだ軽水炉はバック・エンド費用を含め、火力と十分競合

新設は償却費負担大で、電力会社は二の足

民間はコスト・ダウンの努力が不可欠、国の政策はどうすべきか

 

(12)電力市場の自由化と原子力

1995年、法改正により発電市場に競争原理、2000年から全電力量の30%が自由化
需要家の選択は発電料金の高低に

もともと原子力は国のエネルギー・セキュリティ確保の観点から開発。現在では、COP3のCO2削減目標達成の為にも不可欠な手段

規制下では、電気料金は総括原価に基づく認可制。国の政策は認可の過程で実現。国は政策のコストを明示する必要なし

電力市場の完全自由化は料金認可制の廃止。国は政策コスト負担を需要家に求める必要、アカウンタビリティが必要

議論はこれから